「査問」川上徹著(ちくま文庫)、「ヒトラーの側近たち」大澤武男(ちくま新書)
「査問」は1970年代前半、日本共産党とその下部組織、日本民主青年同盟(民青)を舞台にして起きた事件を題材にしている。学生を中心にして、若者がまだ社会に積極的に異議を申し立てていた時代の話だ。著者の川上氏は民青系の全学連委員長を務めたことがあり、「事件」当時は民青本部組織の役員だった。
ある日、川上氏は突然、組織上層部から呼び出しを受ける。「査問」の始まりである。君は組織の指令に背き勝手な行動をしたのではないか。組織を破壊しようとしたのではないか。破壊分子であり、分派活動のリーダーではないのか。川上氏には身に覚えがない。しかし、本部の中で完全な監視下に置かれ、捜査機関顔負けの「取り調べ」が続く。「自分は間違っていない」。それを証明しようとして具体的なことを語れば語るほど、他の仲間も次々と同様の嫌疑をかけられ、査問されていく。
筆者の思いは別にしても、この書物は「組織と個人」のありようを真正面から問うたものだと感じた。路線論争が活発で、それが活力でもあった1960年代末までの共産党と違い、1970年代以降はどんどん党の官僚化が進む。その様子を「査問」事件を通して、組織内部から活写している。
「査問」の嵐が終わった後、次第に誰もが査問のことを口にしなくなっていく。だれがどんな分派活動をしたのかを具体的に真摯に問うこと泣く、「組織は危機に直面している」といった“恐怖”が喧伝され、その中で組織は自由度を失い、ますます官僚化していく。「事件」からしばらくの年数が過ぎた後、川上氏はこう思った。「あれだけの事件があっても党内から公然と意見を言ったり質問をしたりする者はいなかった」「学者は理論問題にはかかわっても具体的な問題にはかかわらなかった」。そして、氏はこうも書いている。
「真に驚くべきことは、共産党という巨大なシステムは、権力発動の動機となったリアリティを完全に喪失した状況の下でも、その権力の機能は全く衰えることがない、という事実である。そして、喪失したリアリティの代わりに、システムの存続それ自体がその組織体にとってのもっともありうべきリアリティーとして登場する。また、喪失したリアリティーと組織存亡のリアリティーの比重の対比が後者にかかればかかるほど、構成員たちの凝縮したエネルギーは倍加し、戦闘性(残酷さや冷酷さやおよそ非人間的なるものも含めて)さえもが飛躍的に増大するのである」
民生本部が攻撃されるかしれないというときの本部内の熱狂、そして「査問」のときの内に向かう冷酷さ。川上氏はそうした自らの体験を通して、「組織」を問うた。上記引用の「共産党という巨大なシステムは」の「共産党」は。もちろん、様々な言葉に置換が可能だ。それは多言を要すまい。
「ヒトラーの側近たち」においても、この組織の病は繰り返し登場する。なぜ、人ら^がヒトラーたりえたのか。組織内での地位保全や栄達の可能性が見えれば、実に多くの人がそれに従い、猛進し、献身し、ヒトラーを頂点とする組織をさらに強固にしていく。
高校生の頃だったか、社会科の先生に「ナチスがユダヤ人の虐殺ができたのは、ユダヤ人の中に協力者がいたからだ。それなしに、ナチスの支配は成り立たなかっただろう」と言われたことがある。
組織とは何か。何のために存在しているのか。その組織の中で自分は何をどうしようとしているのか。そういった、絶えることなき問いを忘れた途端、組織は暴走をはじめる。その先にあるのは、ナチス・ドイツもそうだったように、たぶん、「破滅」である。
ある日、川上氏は突然、組織上層部から呼び出しを受ける。「査問」の始まりである。君は組織の指令に背き勝手な行動をしたのではないか。組織を破壊しようとしたのではないか。破壊分子であり、分派活動のリーダーではないのか。川上氏には身に覚えがない。しかし、本部の中で完全な監視下に置かれ、捜査機関顔負けの「取り調べ」が続く。「自分は間違っていない」。それを証明しようとして具体的なことを語れば語るほど、他の仲間も次々と同様の嫌疑をかけられ、査問されていく。
筆者の思いは別にしても、この書物は「組織と個人」のありようを真正面から問うたものだと感じた。路線論争が活発で、それが活力でもあった1960年代末までの共産党と違い、1970年代以降はどんどん党の官僚化が進む。その様子を「査問」事件を通して、組織内部から活写している。
「査問」の嵐が終わった後、次第に誰もが査問のことを口にしなくなっていく。だれがどんな分派活動をしたのかを具体的に真摯に問うこと泣く、「組織は危機に直面している」といった“恐怖”が喧伝され、その中で組織は自由度を失い、ますます官僚化していく。「事件」からしばらくの年数が過ぎた後、川上氏はこう思った。「あれだけの事件があっても党内から公然と意見を言ったり質問をしたりする者はいなかった」「学者は理論問題にはかかわっても具体的な問題にはかかわらなかった」。そして、氏はこうも書いている。
「真に驚くべきことは、共産党という巨大なシステムは、権力発動の動機となったリアリティを完全に喪失した状況の下でも、その権力の機能は全く衰えることがない、という事実である。そして、喪失したリアリティの代わりに、システムの存続それ自体がその組織体にとってのもっともありうべきリアリティーとして登場する。また、喪失したリアリティーと組織存亡のリアリティーの比重の対比が後者にかかればかかるほど、構成員たちの凝縮したエネルギーは倍加し、戦闘性(残酷さや冷酷さやおよそ非人間的なるものも含めて)さえもが飛躍的に増大するのである」
民生本部が攻撃されるかしれないというときの本部内の熱狂、そして「査問」のときの内に向かう冷酷さ。川上氏はそうした自らの体験を通して、「組織」を問うた。上記引用の「共産党という巨大なシステムは」の「共産党」は。もちろん、様々な言葉に置換が可能だ。それは多言を要すまい。
「ヒトラーの側近たち」においても、この組織の病は繰り返し登場する。なぜ、人ら^がヒトラーたりえたのか。組織内での地位保全や栄達の可能性が見えれば、実に多くの人がそれに従い、猛進し、献身し、ヒトラーを頂点とする組織をさらに強固にしていく。
高校生の頃だったか、社会科の先生に「ナチスがユダヤ人の虐殺ができたのは、ユダヤ人の中に協力者がいたからだ。それなしに、ナチスの支配は成り立たなかっただろう」と言われたことがある。
組織とは何か。何のために存在しているのか。その組織の中で自分は何をどうしようとしているのか。そういった、絶えることなき問いを忘れた途端、組織は暴走をはじめる。その先にあるのは、ナチス・ドイツもそうだったように、たぶん、「破滅」である。
スポンサーサイト